一番身近に感じるひと
そう切出されれば普通は恋人とか家族とかと思う。
でも、そうではない人もいる。
医師から今夜が山と宣告されながら、いのちの極みのただ中で不安や恐怖どころか、神を一番身近に感じ、死ねば神に会えるのだ、と胸を高鳴らせていた、と言う。
そういうひとは宗教的な天才なのだと思う。私には到底無理だ。死を宣告されたら、うろたえ、のたうち回り、あらんばかりの醜態を演じるだろうと自信を持って言える。こんなことに自信を持つこともないが悲しいかな本音である。
もちろん理想を言えば悠悠として死に赴きたいのだが・・・。
信仰心が神をもっとも身近な存在に感じさせるのだろうか。私にはもっと別種な直感のような気がする。
夕方、散歩に出たら母親といっしょに散歩中の2歳くらな小さな子供に会った。あぜ道から戻ってきながら、蛙がいなくなった、とつまらなそうだった。そう言えば田圃の水も少なくなって来たような気がする。蛙の鳴声も以前ほどかまびすしくなくなった。おそらく、あぜ道に踏込むと一斉に田圃に飛込んで行く蛙の群を毎日の散歩の楽しみにしていたのだろう。
身近に接しているから気付く変化だ。私などは言われるまで気付かなかった。
奇妙な喩えだがこういう子供の感覚に近いのではないだろうか。何ごとも子供にはかなわない。
サンテックスの文章を思い出す。
だれでもかつては子供だった。でもそのことを憶えている大人はたくさんはいない。
しかし、天才は「覚えている」のではなく、子供のままなのだ。天才でない私はそう想像している。