懐素のたゆたい

最近、懐素が自らの書の来歴を綴った「自敍帖」の草書をつらつら眺めている。
有名なのは「千字文」だ。懐素の「千字文」は一文字一金に値するとして「千金帖」とも呼ばれており、日本でも信奉者が多い。
千字文」は懐素63歳のときに書いたものだが、哀しいかな数え年63になるのに私にはその良さがまだ分らない。
良寛和尚は50代の10年間は「自敍帖」を熱心に勉強した。五合庵に泥棒が入ったとき、ほかのものは何を持っていってもよいが「自敍帖」だけは勘弁してくれ、と懇願したという。
その良寛さんも60歳をすぎるとしきりに「千字文」を臨書するようになったらしい。がらりと変った書体から見て取れる。
だが、私には枯れすぎている。あまりに枯淡である。良さが見えない。良さ、面白さ、味わいは自知するしかないからどんなにあがいてもどうにもならない。今の私には「自敍帖」の方が数段魅力的だ。
この書には非常に端正な正調派から「千字文」に近い屈託のないものまでいくつかの草体が混じっていて実に見応えがある。
正調派は例えばこんな感じだ。


「禅」も「聖」も由緒正しい美しさがある。とても大酒を喰らい、奇声を発しながら狂ったように筆を揮った人の書とは思えない。
狂草の面目躍如はつぎの書だろう。一文字だけでは狂草の狂草たる所以が分りにくいので連綿とつづいているものを載せる。

ここには「激切理識玄奥」と書いてある。
この自由な筆運びはどうだろう。文字の大きさも気の赴くまま、文字の配列も自在無碍の感がある。
私の一番気に入っている、あるいは、気に懸かっているのはこれだ。


この「規」「後」は、もう少し「千字文」に傾いた書体のように思う。このたゆたうような線の流れを見ていると人間が書いたものというより自然界そのものを見ているような気さえする。
今は「自敍帖」すべての文字を、一文字一文字切り離してファイルに分類していつでも読めるようにしているところだ。もう少しで作業が終る。
良寛も若い頃の書はきりりとしていてまったくスキのないものだったが、晩年にはかの有名な「天上大風」を書くまでに枯れ果てている。懐素はもちろん、良寛も、正調派を極め尽したから狂草があり、「天上大風」があるのだ。
私はどこまで枯れ果てられるのだろう。

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