やっと書けた

群読集団 冬泉響の朗読公演「セロ弾きのゴーシュ〜遠野花巻鳥獣夜曲〜」の挨拶文を書き終えた。

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 セロ弾きのゴーシュは単なるひとと動物の交流物語ではありません。それは柳田国男の「遠野物語」が単なる山人の生活譚でないことと符合してゐます。
 賢治の童話は子供向けの話として親しまれてゐますが、賢治の童話世界の地下深くに流れる伏流水はあまりに壮大でときに読む者を呑込み、めくるめく思ひにさせます。それは賢治が理想郷イーハトーブ建設を強く念じてゐたことと無縁ではないでせう。人口に膾炙してゐる「雨ニモマケズ」の覚書にもその姿勢はよく現れてゐます。
 「セロ弾きのゴーシュ」は、ゴーシュが弾くセロの響きが小動物たちの病ひを治し、そのお礼でもあるかのやうにいつの間にかゴーシュのセロの腕前が上がり楽団員たちを驚かせるといふ異種交流譚ですが、もっと大きな輪がこの作品を包み込んでゐるやうに思ひます。
 「セロ弾きのゴーシュ」を読んでゐる時いつも感じる心象風景があります。それは作中のゴーシュや小動物たちばかりでなく、読んでゐる私もが、各々ひとつの光の輪に包まれ、それらひとつ一つの光の輪から無数の微光が鈴のやうな音を出しながら放射状に光り、すべてを包み込むはるかに大きな虹の輪になってゐる、そんな光景です。そんなことは物語のどこにも書かれてゐないのになぜかさう感じるのです。
 それは花巻といふ土地の霊力とでもいふべきものなのでせう。動物にやさしく接したおかげで幸を得たといふ話だったなら、日本昔ばなしの一変奏に終ってゐたでせう。この作品の行間にはイーハトーブの風光があぶり絵のやうに描き込まれてゐます。その霊力により「セロ弾きのゴーシュ」は「銀河鉄道の夜」や「春と修羅」と並ぶ作品になってゐるといへます。
 もちろんこれは私の勝手な感じ方にすぎないのですが、今回の朗読ではその感じを少しでも朗読の響きに生かさうと、「セロ弾きのゴーシュ」に「遠野物語」の一部を織り込んだり、賢治のいくつかの童話や詩の抜粋をちりばめたり、それらに曲を付けたりしてみました。


遠野にては山中の不思議なる家をマヨヒガと言ふ。
(「遠野物語」より)



  山のうへから、青いけむりがふきだした
  …西風ゴスケに北風カスケ…
  森のなかから、白いけむりがふきだした
  …西風ゴスケに北風カスケ…
(「タネリはたしかにいちにち噛んでゐたやうだった」より)



  ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
   さそりの赤眼が 見えたころ、
   四時から今朝も やって来た。
   遠野の盆地は まっくらで、
   つめたい水の 声ばかり。
(「シグナスとシグナレス」より)

 こんな風にゴーシュの世界とはまったく関わりのない奇譚や、ちょっとした童話の一節を挿入してもゴーシュの世界はびくともしません。いや、むしろより一層豊かになった感さへあります。そんな群読集団 冬泉響版の「セロ弾きのゴーシュ」をどうぞ存分にお楽しみください。