是身非有痛自何来
¶
足利市で開かれている白玄会の書展へ
まづは腹ごしらえ
結局土地勘がないので同じ店に行くことになる
鑁阿寺となりの蕎麦屋
さて、私の書はこれでござる
どの筆で書いても強さが出ないので
白化粧の刷毛目用の、箒をばらして作った刷毛で書いた
蛇足:
是身非有痛自何来
この身有に非ず痛みいづくより来たる
玄沙禅師は究極の安心を求めて雲水の旅に出で立ち、その途上、したたか足指を石にうちつけ流血する
その刹那にこの句がひらめいた
句には二つの意がある
ひとつは
仏の教えによれば私たちの存在は空である それだのにこの激しい痛みはどこからやって来るのか?
という大疑問
もうひとつは
「非有」を仏と読む
「何」も仏の作用と読む
もちろん「痛」も仏と読む
この身は本来非有であるゆえに、痛みは「何」よりやって来るのだ
存在の根底を知り尽くした玄沙は引き返して師である雪峰のもとに戻る
すかさず雪峰から問が発せられる「なんで戻ってきた?」
玄沙「もうひとをたぶらかすのは無しにしました」
雪峰「どうして求道遍歴しないのか?」
玄沙「達磨は東へやって来ませんでしたよ」
玄沙は痛みの向う側に「何」の玄妙な働きを見抜いたのだ
この身が空だから痛まないのではない、空であるがゆえに痛みが「何」を啓いたのだ
こう書いてきてあっハイデガーだと思い当たるところがあった
もちろん禅は向上放下の働きであり、哲学は思惟なのだからその差は大きいのだが……