こだわりとこわばり

今日は朝から調子が悪いので休養だ。
家でぼんやり時をすごしながら考えた。
こだわりはいいものだ。でも、こわばりはいやなものだ。この二つの差はほとんどない。朝焼けと夕焼けの違いのように見る側の気持の違いだけかも知れない。未来への思いと見ればこだわりになり、結果への固執と見ればこわばりになる。あるいは、大いなるもの、芯なるものへつながるならこだわりになり、個や己への執着ならこわばりになる。
福田恆存だったと記憶するが、学生のとき受けた講義で、個性を伸ばそう、個性を尊重しようというが、おかしなことだ、個性は一種の欠陥なのだから個性尊重は邪道だと言っていた。
その趣意は、規範を守れということだ。人間には限界があり、どんなに厳密に規範を守ってもはみ出してしまう。その逸脱が個性だ。この逸脱には規範の芯が通っている。だが、はじめから個性(逸脱)を良しとしていたのでは、芯なるものにつながりつつ己を表出することはできない。そういうことだと思う。
言い換えれば、個性は結果としてあらわになる謂わば「外なる中心」なのだから、それを意識して伸ばすことは不可能だ、ということだ。
恆存はD.H.ロレンスの「アポカリプス論」を高く評価していた。この独特な個性論も、また、氏の主著「人間この劇的なるもの」もその延長上にある。
(このあたりのいきさつはここで簡単に説明してありますので、関心のある方はご覧下さい)
ものを作っていると絶えず(強迫観念のように)他人と違うものを作れと迫られる。訓練校でもいろいろな先輩から言われた、同じものを作っていては売れないぞ、と。知人のデザイナーからも、他の作家の器と違う点はなんですか、と問いかけられる。私は沈黙するばかりだ。
いつになったら「外なる中心」を得られるのだろう。
日暮れて道遠し・・・。



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