NHK氷壁

NHKが力を入れていた(かどうかは知らないが)「氷壁」6話シリーズが始まったが、私は1合目で下山した。役者の演戯力は置いておいて、台本があまりにひどい。設定も意味なく原作から逸脱している上、登場人物の台詞がハーケンに固定されていない。

K2にした意味は何だろう。ゆうべはあまりのショックで、映画版「氷壁」を観てしまった。映画版は展開が速すぎて、小説の「山」の霊気・冷気がまったく感じられないのが残念だが、それでも、例えば遭難した親友小坂がまだ雪に埋もれているんだ、ということばに現実味を感じたのは、埋もれている山が穂高だからだろう。魚津恭太が会社に特別に少し長目の休暇をもらって、大してもらってもいない給料をつぎ込んで山に登る、という山男ならではの衝動はほとんど身体的に理解できる。K2ではそういうわけには行かないのではないか。

二人だけで登る奥穂高には個としての人間の大きさやなまなましさが見て取れる。一方、壮大なプロジェクトチームを組んで登攀するK2には組織の思惑しか見えてこない。その流れに乗って登頂する人間には、野心ばかりが透けて見えて、山男の人となりも登山のロマンも、もはやない。両者の差はあまりに大きい。一体何を目的にしているのか?私にはNHKの虚栄しか見えない。その予算を穂高に費やせと言いたい。うわべだけの派手な演出はもういい。そういう時代はバブルと共にとっくの昔に終焉したのではないのか。今は内面化の時代だ。放送局というのはそういう時代の流れを的確に読むべきではないだろうか。

また、美那子が徒に蠱惑的に描かれているのも気になる。美那子は結果としては二人の男の死と関わることになりはするものの、決して自分から誘惑するタイプの女性ではない。美那子は、本人の自覚とは拘りなしに、存在自体が「山」そのものなのだ。山は動かずにそこにある。だから男たちは山を目指した。何故ここまで変えてしまったのか?制作意図が不明だ。K2と同じ原理が働いているように思われてならない。

もちろん、原作に忠実であれ、と杓子定規な主張を振り回すわけではない。改変するなら原作を上回るもの、あるいは、最低でも、原作と同等な質のものを作るのが、原作への礼儀ではないのか、と言いたいだけだ。いや、NHKには、ただ単に題名を借りただけ、位の意識しかないのかも知れない。それが証拠に無意味に登場人物の名前を変えている。深読みすれば、ここに一種の罪悪感が見て取れる。