metatheatre

いくら考えても何故か(頭が悪いせいか?)ふりだしに戻るしかないmetatheatreという概念は苦しくて楽しい。このことばは、多くの哲学的概念と同様、意味内容は形式的な定義語でほとんど処理されうる単純明快な思考の枠組でしかないのだが、それを実人生に当てはめつつ行動の中で理解しようとすると、突然雲散霧消してしまう、という不思議な概念だ。

シェイクスピアが『お気に召すまま』でジェイクイーズに語らせた「この世は舞台、ひとはみな役者」ということばが表す世界劇場という概念も同類だ。私の専門的関心は一応世界劇場ということになっているのだが、こんな告白をしていると勉強不足が露呈されてしまう。

以前はmetatheatreを次のように捉えてみた。

metatheatreとは人生を虚構(作り物=作品)へと捧げる運動。realなものをunrealなものへと捧げることにより、よりrealな生き方を生起させる弁証法的な運動。

だが、まだrealなもの、unrealなものという規定不能な概念に寄りかかっていて充分ではない。

今までのところ一番、metatheatreを感じたのは残念ながら文学関係の本ではなく、岩田慶治氏の著作だ。当人はmetatheatreについてかくつもりなどさらさらないことは承知しているが、この世とあの世の有り様を、ご自身の禅仏教の体験や戦争体験、そして、専門である民俗学のフィールドワークでの体験から実に見事に描いて見せてくれる。

この境地にまで至らない限りmetatheatreはすがたを顕わさないのではないだろうか。単なる劇場的用語の枠には収りきらないのだ。岩田氏は抽象概念をわが手で掴んで思考を進める。まるで、舞台上の役者が、役という雲を掴むような概念を生身ひとつで生き抜くように。