今日のシェイクスピアは『リア王』

あらすじを読んだだけでも、この悲惨な物語にことばを失うだろう。1681年、ネイハム・テイトがハッピー・エンドに改作(改悪?)して以来、じつに1838年まで、シェイクスピアの原作は舞台に上ったことはなかった。こういう上演史は、この作品の衝撃の大きさを教えてくれるが、同時に、作品構造の難しさも教えてくれる。たしかに観客の同情を引きつけるのはリアとグロスターであり、この劇の中核となる老人の受難は、登場人物はもとより、観客の精神と身体にまで過酷な試練を課す。だが、この劇の影の主役として、大きな働きをしているのがエドガーであることを忘れてはならない。それは単に感動的な親孝行の物語という意味ではない。狂ったリアの鏡として、狂ったトムのふりをするエドガーの役割は大きいが、それ以上に、グロスターの身投げをはさんだ、ドーヴァーの断崖の頂上と崖下の場面で、エドガーが作り出す不思議な演戯空間が、この劇の隠された要を垣間見させてくれる。
リアは狂う前から、ちょうどハムレットと同じように、狂ったふりをしている。愛情の多少に応じて、王国を分け与えようという、気まぐれそのものが、すでに狂気の前兆といえるが、リアと道化が、狂気の演戯をまるで弦の共振のようにくり返すとき、その共振は次第に増幅して、ついには狂気と狂気のふりは区別つかなくなる。こういった狂気の共振によって、リアは、他から切り離されてリアであることをやめ、道化と、さらには、あわれなトムと、グロスターと4人でひとつの大いなる役を演じることになる。リアはリアひとりではなく、グロスターも、道化も、エドガーもリアである。
リア王』はその精神世界が巨大すぎて、舞台には乗せられないと考えた批評家もあるが、考え方が逆であり、リアのあり方があまりに劇場的なため、人間的に捉えようとすると、その精神性ばかりが肥大してしまうのだ。
人間は精神のみではない。同様に、登場人物も精神だけではない。だが、現実の人間と違って、舞台上の登場人物は、生身の身体そのものであると同時に、『ヘンリー五世』の口上(「私たちの足らないところは、どうか、みなさまの思いで補ってください。ひとりの役者を千に分割し、想像の軍勢を作り出していただきたい。」)が懇願するように、隠喩として、千人の役割をも演じるのだ。そういった高められた人間存在のありかをひそかに教え示してくれるのが、ドーヴァーでのエドガーの演戯だ。頂上までの登り坂は、真っ平らで、かつ、急勾配だ。頂上から崖下までは、目もくらむ高低差があり、かつ、まったくない。ここに大道具類をほとんど使わない当時の劇場のたくましい想像力学がある。こういった劇場風土から、シェイクスピアは『リア王』をはじめ多くの傑作を作り上げたのであり、決して肥大した精神宇宙の書斎からではない。
『オセロー』で時をゆがませたシェイクスピアは、『リア王』では空間と人間存在に、離れ業を演じさせている。




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覚えておきたいシェイクスピアのことば⇒



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