王様のレストラン
今日から三夜連続ではじまる三谷幸喜のドラマに合わせて今週はじめから「王様のレストラン」が再放送されている(少なくとも関東では)。
三谷幸喜は才能あふれる喜劇作家である。映画も面白い、ドラマも面白い。
だが、なぜかすべてB級である。おそらく作家自身が喜劇はかくあるべしと方向を定めているのだろう。
それはいい。喜劇は気楽に見るものである。最近の宮崎駿のように妙なメッセージを込めて作品をつまらないものにせず、ひたすら娯楽に徹するのがよい。それが喜劇の王道だ。
しかし、演出に問題がある。キレがない。あの厚ぼったい感じは何だろう。
と書いて、自分の茶碗の厚ぼったさに思いが走った。
閑話休題。
「王様のレストラン」はレストランだけが舞台のドラマだ。厨房だけを舞台にしたアーノルド・ウェスカーの'Kitchen'を意識したのかはじめから手枷足枷をはめて出発している。
舞台がひとつの場所に固定されているというのは、
- 一日で終る物語
- 筋はひとつだけ
- 場所もひと所
だから、このドラマは最近のほとんどのドラマのように必要もない絵を埋め草や説明に使わず、登場人物にのみ光を当てる直球勝負の芝居だ。だったらもう少し一人ひとり登場人物の奥を見せられなかったのか?ちと残念だ。
役者が主役をのぞいて知名度だけのB級グルメということもあるのかも知れない。山口智子などはどのドラマでも同じ演戯しかできていない(個人的には好きな女優だけれど、演戯の善し悪しは別な話だ)。
また、よけいな場面転換を省いているのだからもっと筋の流れがきびきびしていいはずだ。しかし、これは時代の変化のせいかも知れない。この作品は15年前のものだ。時間感覚が今と違っていたはずだ。当時としてはきびきびした流れだったのかも知れない。
それを差し引いても不満は残る。小津の映画は悠長そのものだがキレがないなどと感じたことはない。場面場面が静謐な美意識で統一されているからだろう。「王様のレストラン」に限らず、映画にせよドラマにせよ三谷の作品にはそういった述語的統一を感じられない。
それでも、このさびれはてたレストランがひとりのギャルソンによってどう変わって行くのか楽しみにしている。