山の人

阿弥陀堂だより」読了。
映画で見てから小説を読んだので、作中人物が役者が演じていた人物と重なってしまう。そこに違和感があった。映画を撮るというのはそういう違和感を同化することなのだろう。それは自分で書いた台本を芝居の公演に向けて稽古に下ろすときの違和感と似ている。自分の中ではこの世の誰のでもない声が鳴っている。だが、稽古場で聞えてくるのは具体的な役者の声なのだ。しばらくはそこにいたたまれない摩擦熱を感じるのだが、次第に役者の肉声以外には台本の声は考えられなくなって行く。
差異の同一化。
ちょうどその反対のことが小説を読み進むむうちに起っていった。ほとんどの登場人物はいつの間にか私の想像世界の人物へと変化していた。だが、この小説でひとりだけ映画の役のまま生きていた人物がいる。96歳の阿弥陀堂の堂守だ。

ありがたいことでありました。
小説の中でもやはり北林弥栄演じる堂守のままであった。彼女の芝居では実人生と虚構の世界がほとんど差別なく行き来する。
村人から堂守は阿弥陀堂に登った時点ですでに里の人ではなく、山の人だと畏敬の念を抱かれているように、この世とあの世の境に住む老女の存在感を、北林は現実と虚構との橋渡しとして演じ切った。自身でもクランクアップ後、涙ながらに語っているように、90歳を超えた女優が長い映画の製作期間をなんとしても生き抜こうとした緊張感が彼女を「山の人」にしていたように思う。
この小説のヘソの緒はあきらかにこの堂守だ。

「山の人」ということばを読んである種の衝撃を受けた。自分には畏怖の念というものがいつの間にか欠落しているように感じたからだ。
そう感じてからあれこれ思いいたしてみると、いろいろなことで頓挫しかかっている原因もそこにあるように思われた。



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