君看双眼色




山が山だと言ったわけでもないのに
山がある


情の力というものがある。それは否定しない。どんなに理路整然としたことばも貫けない心に情は春の雨のように染みわたる。いや、春の雨以上の浸透力を持つ。
それをe.e.cummingsは


nobody, not even the rain, has such small hands
と歌った。

だから、良寛が愛した白隠禅師のこの句


君看双眼色(きみみよそうがんのいろ)
不語似無憂(かたらざればうれいなきににたり)

(正しくは不語似無愁)を、あの人の目をよくご覧なさない、憂いがないように見えるけれど憂いがないのではない、ただ語らないだけなのです、と日本人的情緒で読むことも間違っているとは言えない。

ただ、やはりそんなんでいいのか、という思いは否定できない。白隠はそんなあまいことをいったわけではないのだ。もともとはこの句の前に大燈国師の句がある。

千峯雨霽露光冷(せんぽうあめはれて、ろこうすさまじ)

それにつづけたのが白隠の句だ。

となると双眼の意味ががらりと変る。人間の目だけではない。山川草木のまなざしを双眼と受けている。末句も「不語、無愁に似たり」と読んだ方が露光冷じい谿声山色の風光に寄り添っている。

私も若い頃懊悩としていたとき、君看よの情緒的解釈に出会って救われた思いがした。これはこれでよいと思う。ただ、それではその先へ行けない気がする。

久しぶりに先ほどの解を提示してくれた先師の般若心経解説をひもといてみた。般若心経は短いながら奥の深い教典だ。私の境地ですべて読み解くことなど到底不可能なのだが、少なくとも今の私は一番の要は「無智亦無得以無所得」にあると考えている。

ここは金剛般若経の「応無所住而生其心」に通じる。

残念ながら先師の解説ではそこは素通りだった。そのとき、情緒の限界を見たように思えた。

智と得がこの世をわがままに(自分勝手という意味ではなく、私の思うままに)造り上げている。心経はそういう世界創造をもともとなかったものとして打ち消す。私はこの無所得の考えにずいぶん救われている。

ああ、そうか、私の苦悩は私が創り出したものだったのだ、そう思えたからだ。

詩の解釈も第一段階は情緒に依拠するが、次に進むと急転して謂わば弁証法止揚のなかでパラドックスやオクシモロンがメビウスの輪のように巡る境地が展開する。情緒にそういうジレンマを耐え抜くことはできない。

芝居の演戯も同様だ。力のある役者の悲しみは一見悲しみには見えない。そういうものなのだ。

なお、君看双眼色の句については以前詳しく書いたので関心のある方は参照下さい




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