舞台の浮力(Adrian NobleのA Midsummer Night's Dream)

先週で、シェイクスピアの劇作品の映画化を題材にした公開講義(二回)を終えた。

その時に用いたキーワードは舞台の浮力と映画の重力だ。

カメラという写実の権化(最近ではCGという魔法もその亜種として存在するが)の力に依存する映画は、宙づりのスクリーンを我々の足もとへと引寄せようとする抗しがたい重力に支配されている。

一方、生身の身体に拠点を置く舞台は、実体のかなたにひろがる虚構世界への浮力に満ちあふれている。

シェイクスピアは舞台のひとだった。映画化には大胆な慎重さが必要とされる。Kenneth Branaghのように舞台を知り尽くした役者=監督はスクリーンへと移しうるものと、移しえないものを的確に判断する。

トスカーナ(Much Ado About Nothing)やブレナム宮殿(Hamlet)といった現地の重力を存分に浴びながらも、登場人物をひらりと舞台の上に載せてみせる。その手腕はあざやかだ。しかし、Love's Labour's Lostのようにそのままの形で映画化は無理と判断すれば、即座にアメリカン・ミュージカルの引用集にスイッチする。

一方、Michael Hoffmanのように浮力に満ちたA Midsummer Night's Dreamを極細密な写実主義で描き始める愚を犯すものもある。この映画のアテネの場面は秀逸だ。様式の枠にはまった冒頭の台詞をこんなにも「自然」に見せられるものかと舌をまいた。だが、森へ移った瞬間に罠にはまってしまう。自縄自縛の罠だ。開幕での写実主義の勝利が、そのまま森での失敗の原因となる皮肉!

Adrian NobleのA Midsummer Night's Dreamの森はただのスタジオだ。そこが森などではなくスタジオであることをまったく隠そうとしない。Adrianは想像力を信じている……作者の想像力、役者の想像力、観客の想像力、そして、なによりも「舞台」の想像力を。この映画には舞台の浮力がしなやかに活用されている。広い空間にぽつんと置かれた4つの扉。扉を支える壁はない。ただ扉だけがある。その扉を惑乱した恋人たちが出入りする。それがAdrianの「森」だ。見終った時、それが映画であることを忘れ、いい舞台を観た、と思った。それほど舞台の魅惑が充溢した作品だ。

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こんなことを話そうとした。だが、いつもの悪いクセで余計なおしゃべりをしすぎたため、いちばん肝心なAdrianの作品についてはほとんど紹介できなかった。それが、悔やまれる。