ブラームスはお好き?
買ってきたミニコンポを楽しんでいる。今日聴いたのはクラリネット五重奏曲だ。持っているのはモーツァルトとブラームスのもの。私たちの世代にはプリンツがなつかしい。
大分昔、まだ音楽家になる夢を棄てきれずにいたころ、桐朋でクラリネットをやっている友人が五重奏のレッスンを受けるというので臆面もなく金魚の糞のように付いていった。有名な先生だったのでレッスン見学は私だけではなかった。
第一楽章、イ長調のあのメロディをまず弦楽が奏で始める。少し進んだところでNorth先生は音楽を止めて、なつかしそうに「斎藤先生はここのところを、風が吹くようにやってくれよ、って言ってたよ」と語り、ここはもっと軽やかに、と注文を出した。(ちなみに、斎藤先生とは小澤征爾を育てた斎藤秀雄のことだ。桐朋学園大学では親しみをこめて「トウサイ」と呼んでいる。)
ぼんやりと二つのクラリネット五重奏曲を聴いていると、モーツァルトのは早春の風、ブラームスは晩秋の風、と違い歴然だ。
しかし、作曲家の明確な造形力には感服する。感服などということばでは到底追いつかない。何故このような空気を生み出せるのだろう。彼らは一瞬で消え去る音をまるで永続する存在物のように扱う。そういうことが出来る者にのみ作曲の資格は与えられるのだ。
ブラームスの五重奏曲には絶えず死の影が漂っている。だが、決して悲愴なわけではない。むしろ甘美な死に陶酔しているかのようである。
この曲を聴くとごく自然に、死者は現世に一瞬だけ蘇れるのだ、と信じることが出来る。何の理由もないが。この曲が生み出す空気が死者と生者の出会いといった超越を許してくれる。そして、生きているということはいいものだ、と感じさせてくれる。傑作の条件である。