意は似せやすく、姿は似せ難し


Every creator painfully experiences the chasm between his inner vision and its ultimate expression.
(Isaac Bashevis Singer)
(作家は誰でも心の中で思い描いたものと生み出したものとの隔たりを痛いほどよく知っている)
ポーランドに生まれ、33歳でアメリカに渡ったノーベル賞作家のことばを疑うひとはいないように思われる。
だが、はたして本当だろうか?
この考えの奥にあるのは言わずと知れたプラトンイデアの思想だ。あらゆる存在には原型があり、その模倣と(あるいは、影)としてこの世の存在がある、という洞窟の比喩として有名な古典ギリシアの哲学者の発想に、疑問符を付けたのがドイツの哲学者ハイデガーだ。
確かに、まず原型があり、それから具体的な存在があるとする考え方は分りやすい。例を挙げると、地上には完璧な三角形はひとつもないが、どんな不完全な三角形でもひと目で三角形と分るのは私たちが心の中に三角形の原型を持っているからだ、という考えだ。
ハイデガーはそうは考えなかった。何よりもまずさきに無があるのではないのか。無の闇に存在の光が明滅する不安定なゆらぎを彼は重要視した。西田幾多郎はそれを述語と呼んで、彼の思索の中核に据えた。一方、プラトンの考えは「主語的」である。Singerの発想も同類だ。
だが、もっと早く日本では本居宣長がこのことに気付いている。それを小林秀雄が明晰な文章でつづっている。いまは引越の谷間にあって小林の本がすぐには出せないので正確ではないが宣長のことばは「意は似せやすく、姿は似せ難し」だったと記憶している。
要するに作家は決して内的なヴィジョンなどというものを持ってはいないということだ。内的なヴィジョンは作品が生まれてから作られたフィクションなのだ。ちょうど作品が作家を生むように・・・。
20世紀は様々な点で破壊的な、破滅的な世紀だったが、こと哲学に関する限り、私たちが生きている内実を正確に記述し得たという点で極めて豊穣な時代だった。とはいうものの、哲学で言うところの「正確さ」は、自然科学の自己過信の楽天主義と違って、おのれ自身に疑問符を付けつづけることを忘れてはいない。
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