響く声と届く声
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私坐ってますか
私歩いてますか
阿蘭陀屋敷に 雨が降る
よく鳴り響く声は美しい。天からの贈り物である。では、よく鳴り響く声だけが客に届くのかというとそうでもないところが芝居と音楽の大きな違いだ。くすんだ声、しわがれた声、倍音が乱れた声……そういうある意味で非音楽的な声も、体内から発せられると(毛穴でしゃべれ!が冬泉響の合い言葉である)見所に届く。
うつわにも同じことが起るような気がする。
窯出の時は大失敗だとがっくりした皿や湯呑を、売り物にならないからと普段使いにしているうちに、うつわが生活のなかで生きいきとした光彩を放つようになる。それだからやきものはやめられない。うつわはうつわのいのちを生きている。
写真の皿や湯呑はその一例だ。
一度目の窯出ではもっと赤茶けていたが、二度焼して少し落着いた。それでも、どんよりとくすんだ色合いはどうにもいたたまれないと感じていた。
それが最近、おや、と感じるようになってきた。うつわが変るはずがないから私の眼や気持が変ったのだろう。よく焼けたつやのある黒釉のものより、このどんよりくすんだものの方に奥行を感じるのは贔屓目にすぎないだろうか。